ゴブリンのつれづれ写真日記

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help リーダーに追加 RSS 桝網用水を歩く

<<   作成日時 : 2008/04/10 22:06   >>

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上田駅前のパレオ横の駐車場に車を入れる。駅ビル横の「ゆう杉」で食事した後、前から気になっていた駅前を流れる水路の探索に出かける。まず若菜館横の水路を写真に撮る。下流側に行って、再び水路が地表に出る中村屋裏でまた撮る。次に駅前の水車のところを写真に撮った。水車の横に案内の立て札があり、そこに桝網(ますあみ)用水という名前が書いてあった。前から何という名前なのか知りたいと思っていたが、これでやっと名前が分かった。



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 案内板の説明によると、この用水には明治の頃から昭和30年頃まで実際に水車があったそうである。精米や製粉の動力として、かつ製糸紡績等の工業用動力として使われていた。駅前に設置された水車の直径は8メートル。近くで見るとかなり大きい。その下を用水が流れている。駅前が再開発される前は水車があるあたりの水路は暗渠になっていたと思う。それを再び水路が見えるようにし、水車を設置したのはいいアイデアだったと思う。



 流れに沿って上流側に向う。イトーヨーカドーのあたりは再び地下にもぐるが、鯉西あたりでまた地表に出る。カフェラウンジ「ポプラ」横に橋が架かっている。そこから用水を撮った。その時面白い説明版に気づいた。「蚕影町(こかげちょう)の由来」が書かれている。蚕影町という名前は今は残っていない。聞きなれない名前だが、「蚕」という字が入っているので興味を引かれた。説明によると、今の上田駅のところに昔「蚕影神社」があったという。町名の由来はその神社で、駅辺りから権現坂あたりを「蚕影町」と呼んでいたそうだ。かつては一面の桑畑で、小県蚕業学校(現上田東高校)が常入に移転されると、通学路として賑わった。また常田館が設立されるとこの町は「蚕の道(シルクロード)」と呼ばれたとある。実に興味深い記述だった。

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 「ポプラ」は以前ミニコミ誌「週刊上田」で紹介されたことがあり、2、3回食事したことがある。店の前は用水に鉄板を何枚も渡して駐車場になっている。駐車場の先がやや川幅が広くなっていて眺めがいい。横に道祖神がたっている。「ポプラ」の斜め向かいにあるのが有名な権現坂。僕が上田に来て最初に住んだのは常田の「ほていや」のすぐ裏だった。まだ免許も車も持っていなかったので電車で通勤していたから、家と駅の行きかえりに毎日権現坂の下を通ったものだ。懐かしい。坂自体を通ったのは数回あるが、最後に通ってからもう10年以上たつだろう。



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 そもそも駅から桝網用水沿いに走っている狭い道を通ること自体随分久しぶりだった。イオン(昔の「ほていや」)にゆく時はもう1本千曲川側の道か反対側の141号線をいつも使うので、常田から引っ越して以来その間にあるこの道は滅多に通らなくなった。この道は今拡張工事中で、いずれ細い道だった昔の面影はなくなってしまうだろう。部分的に道幅が広くなっている用水沿いの道を久々に歩いてみる。用水の千曲川側はほとんど昔と変わらないが、道が拡張されている山側の方はだいぶ変わっていた。家が何軒かなくなったのか、だいぶ見通しがよくなっている。懐かしい「上小漁業協同組合」の看板がまだあった。



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 上田に来たばかりの頃、この「上小」の意味が分からなくてあれこれ考えたものだ。すぐ浮かんだのは上田小学校。しかし小学校と漁業組合ではどう考えても結びつかない。これが上田と小県をあわせたものだと分かったのはしばらくしてからだ。小県という地名には感慨深いものがあった。東京から上田に来る直前に、何か長野県に関係のある本を読もうと思い、藤村の『破戒』を読んだ。その中に小県という地名が何度も出てきたのだ。いかにも懐かしい響きのあるこの地名がまだ消えずに残っていたことが分かってうれしかったのである。



 笠原工業横の交差点の手前に白壁の大きな建物がある。僕が常田に住んでいた頃はボロボロで外壁もひどく汚れていた。あまりに薄汚いと思ったのか、何年か前に壁を白く塗って化粧直しをした。おかげでだいぶ見栄えがするようになったが、正面側は昔のままの汚れが残っている。信越電線と書いてあるが、これが何の建物かずっと不思議に思っていた。繭倉?それとも倉庫?その前の道が今工事中で、何箇所か土盛りがしてある。拡張後の道幅が分かるようになっている。今写真を撮っておかないと昔の面影を残せないと思って写真を撮った。



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 交差点を右折して踏み切りのところへ行く。用水がその手前で右に曲がっていて、法修寺の裏を回りこんで線路横に出ているのである。そこから用水は線路沿いにまっすぐ走っている。常田新橋のところまで水路伝いに行って、そこで水路と分かれてイオンのすぐ下の道に入る。イオン裏の崖のところも工事している。裏側の出入り口が狭いので、新たに別の出入り口を作っているのだろうか。常田新橋から踏入公会堂横の信号まで上がってゆく坂道を少し上がってみる。イオンがまだジャスコだった頃裏に駐車場があった。その駐車場とジャスコの裏口の間に小さな橋が架かっていた。駐車場とジャスコの間に小さな谷があったのである。そこだけ木が生い茂り、谷底には小さな川がちょろちょろと流れていた。ほんの小さな一角だが、まるでオアシスのような場所だった。悲しいことに、そこはもうすっかり荒れ果て、木も少なく川も流れていない。谷の形状がわずかに面影を残すのみである。



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 また坂を下りイオン下の道に入り、駅の方に向う。右側がずっと笠原工業の敷地だ。左側に懐かしい建物が見えてくる。2階建ての白いアパート。上田に来て最初にすんだ「ナリタコーポ」。左隣は今茶色のアパートが建っているが、僕が住んでいたころはそこに武井樹脂の工場があった。「ナリタコーポ」の向かいに細い道がある。昔はその細い道を通って崖の上の「ほていや」(ほていや→ジャスコ→イオンと変わった)へ歩いていったものだ。登り口のところに、道をまたいでいる通路のようなものがある。笠原工業の敷地の間に細い道が通っているので、その道をまたいで移動できるようにしてあるのだろう。木造なのでもうだいぶくたびれている。これもいずれなくなるだろうから思い出に写真を撮った。細い道を上りきると「ほていや」の駐車場に出たのだが、道の両側は木が生い茂っていて気持ちのいい道だった。「ナリタコーポ」に住んでいた頃はそこを勝手に「哲学の道」などと呼んでいた。あっという間に上りきってしまうので、物を考える余裕などありはしないが。先ほどの交差点の手前には時代を感じさせる古い建物が並んでいる。もう常田から引っ越して15年以上たつが、こんなに古い建物だったかと改めて思った。交差点を渡り、また用水沿いの道を駅に向って進んだ。来る時と逆の角度なので、また何枚か写真を撮る。



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  駐車場から車を出して、堤防沿いの道に出る。常田新橋を通り過ぎてしばらく走り、左に入る。古塚神社の下あたりに出る。このあたりをゆっくり歩くのは久しぶりだ。いつの間にか住宅地になっており、新しい家が立ち並んでいる。今も建設中の家が2軒ある。素晴らしい庭園のような植え込みもある。以前はこんなものあっただろうか。



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 さらに国分側に進んでゆくと泉町水源地がある。桝網用水の水源地を知りたくてここまで来たが、ここが水源地なのだろうか。仮にそうだとして、ではあれだけの水量をどこから確保しているのか。今度は泉町水源地の水源が知りたくなった。見渡したところ水が流れ込んでいるところは一つしかない。泉町水源地のすぐ横は崖だが、崖に141号線まで上がる階段がある。その階段の横を水がものすごい音を立てて流れ落ちている。これもまた懐かしい光景だった。まだ常田に住んでいたころ自転車で(まだ車も免許も持っていなかった)何回か来たことがある。階段を上ると確か日本無線の横に出たはずだ。ここまで来たのはこの階段を久々に見たいという気持ちもあったからだ。



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 階段を少し上って横の水路を除いてみると、水がミルクのように白く見える。あまりに流れが急なので水が白く泡立っているのである。さて今日の探索はここまで。泉町水源地は柵で囲まれているので中には入れない。だから他にも水が注ぎ込んでいるところがあるのか確認はできない。家に帰ってネットで調べたら泉町水源地のことがだいぶ分かった。ここは伏流水を集める池だったようだ。泉町と後に名づけられたくらいだから水が湧き出ていたのだろう。この池から水をポンプで汲み上げ、染屋浄水場でろ過して上田市街地に水道水を供給するという方式だったらしい。後に神川から水を引くようになったということだが、すると泉町水源地は現在使われていないのだろうか。しかし確かに桝網用水は泉町水源地から流れ出ている。飲料水としてではなく用水として使われているということだろうか。確かなことは分からない。



 いずれにしても、あの急坂を駆け下りてくる水路が泉町水源地を通って桝網用水に水を供給していることは間違いない。ではその水路はどこから流れてくるのか。家に帰ってから地図で調べてみると、常入の常田池あたりから流れてきているようだ。水路はさらにその先まで行っているが、それが蛭沢川とつながっているのかどうかは地図では判然としない。今度はそのあたりをたどってみよう。



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 地図を見ていて気づいたが、古里やその北の住吉あたりは水路が縦横に走っている。それこそ網の目状と言っていいくらいだ。車で走っていても気づかないが、地図で見るとはっきり分かる。住吉と古里は矢出沢川と神川にはさまれた地帯である。神川は流域の水田を潤す大水源だったと聞いたことがあるが、このあたりにため池が少ないのは神川の水が豊かだったからかもしれない。上田はやはり水の都だった。蛭沢川を調べた後は、住吉と古里あたりを探索してみよう。



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